whyが”評価されない”サードプレイスへ -Coordinator 瀬戸 昌宣[前編]-

KSPArticle, Interview

大胆なキャリアチェンジを通じて、自らの想いの実現のために教育事業に取り組んでいる瀬戸昌宣さん。インタビュー前編として、ご自身のキャリアを中心にお話を伺いました。

 

──瀬戸さんの現在のお仕事とこれまでの経歴を教えていただけますか?

もともとはアメリカの大学で十年間研究員をしていて、去年の一月に高知へ引っ越しました。大学では農業昆虫学や環境科学、微生物学などを研究していたんですが、当時、研究が自分の中で一番面白いと思い込んでいた部分があって、それこそ、自分の中の”WHY”をそれほど問うてなかったんですよね。

向こうで子どもも二人生まれて、そんな中で、ある日同僚からポツっと「つまんなそうだな」って言われたんですよ。

家族もいるし、向こうにずっと暮らすつもりだったから、苛烈な研究競争の中で、研究費を取ってきてどうにか研究室を回していくっていうのが当然のルーティンになっていて、その中でもっとベターにできないかとは考えていたけど、あり方自体を問うことがなかったんです。

だからその一言を言われた時には、「えっ!」と思って、立て続けに「息子たちにそんな背中見せんなよ」と言われ。そこではじめて、「あれっ、俺、何かズレてんのかな?」と思って、少し立ち止まって考えてみることにしました。

 

「自分がバトンを渡している感覚」

そうして振り返ると、これまでのアメリカでの研究生活の中でも一番楽しかったのが、「学びの場づくり」でした。

アメリカに行ってすぐの頃、所属していた大学と州が共同で管理している農業試験場があって、そこがメインのフィールドでした。一万四千人くらいの街で、公教育がかなり崩壊していたんです。もともとアメリカという国では、高校の卒業率は田舎に行けば行くほど低く、識字率だって日本みたいな状況では全くありません。

象牙の塔にいるだけじゃダメだなと思って、アメリカへ行ったその年から地域の学校へ出張授業に行き、もともと900名規模だった大学のオープンハウスも、積極的に運営にかかわり、3500名規模まで拡大させました。そうした中で、昆虫学に触れ、うちの大学の昆虫学科に入ってくる子が増えたんですよ。それが、もうたまらなく嬉しくて。

それって要するに、僕自身がバトンを渡せてるんですよね。

研究って論文としてモノが残るので、それがゆっくりと受け渡されていく。それはとても素敵な事で深い貢献を感じるのだけど、この研究を必ず引き継いで!というわけにはいかない。「教育=エデュケーション」を通して、「学び問う」ということ自体のバトンを、主体的に受け渡していけるということに、より魅力を感じていたようです。自分が本当にやりたいのは「教育=エデュケーション」の方なんだなと、この時に気付きました。

 

アメリカの大学研究員から役場の職員へ

教育の中身で言うと、最近は特に、大学っていう場の機能が色々な文脈で語られていますよね。職業訓練所になっているとか、クリエイティビティがないとか。そういう風に考えた時に、そこの改革に取り組むよりも、むしろ大学を必要としないような子どもたちを育てる手助けができたら面白いなと思ったんです。

それで日本に帰ったら、そういう教育をやろうと思ったんですけど、東京の先端的な中高一貫校などでは一学年に三〜四百名程度いて、その人数相手では、思い描いていた教育の実現が難しいと思ったんです。そうではなく、もっと少人数の場所へ行こうと思い色々と調べていくうちに、まず自治体のサイズは四千人くらいが一番良いだろうとなりました。その自治体の中で、一学年三十人程度の学生を確保できている自治体を探していきました。

その頃、所属していたアメリカの大学でも契約延長の話が出ていて「どうする?」と聞かれていたんですけど、それを断った、ちょうどその日に、日本の土佐町のサイトで教育に関する人材育成のポジションの募集があり、「あ、これだ」と思って進む先を決めました。

まだ契約は残っていたので、弾丸で一週間だけ時間をつくり、日本に帰国し、面接をして、行政の方々と話をしてみて、彼らとならいけると更に確信を深めました。

その後は引っ越し準備が大変で。大晦日の23時45分に飛行機で日本へ着いたのを覚えています。笑

それから、役場で働き始めると同時に、学校教育・社会教育の企画運営の支援をやっていきました。教育って、学生・保護者含めた「町民」がいて、「学校」という母体があり、教育委員会などの「行政」があるというこの三つ巴の状態が常にあるんだということを強く感じることになりました。どれも必要で、重要。本当はこれらのハブとして動ければよかったんですけど、僕は行政に入っちゃっていたわけですね。そうすると、なかなか難しい部分があり、一年三ヶ月経った後、僕がやっていた教育事業を受託する法人を立ち上げるに至りました。